青D日記

管理人の趣味全般について適当に語るブログ

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6/3

朝6時半くらいに目が覚める。
4時間くらいしか寝てないはずなのに寝れない。
仕方ないのでスマホの夏画像の壁紙を探す。ついでに夏影とsummerを聴く。
ノスタルジックな雰囲気に浸ってウルウルする。

大学に行く。『ツァラトゥストラはこう言った<上>』を読み終わる。
大学終わってから女友達+男友達と一緒にカラオケ。

朝:デニッシュパン一切れ
昼:ベーコンエッグの菓子パン
夜:ピザハットL

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6/2

16:30までベッドの上でダラダラ

親にせかされるけど何もしない

電車に乗って補習所。
行きと帰りでツァラトゥストラ100ページ近く読む。

家帰って神のレジュメを作成

昼:たまごかけごはん ハンバーグ(昨日の残り)
夜:春巻き1こ 天むす レモンタルト
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神の道具性についての話はまた気が向いたらにする。
僕が神に縋ろうと思ったのは、元を辿れば『薔薇の名前』を読んで宗教の神秘的な側面に強く惹かれたからなんだけど、
『この人を見よ』を読んでメタフィジカルでもフィジカルでもない、セオロジカルな抜け道には入り込む必要がないと知ったので。
早い話が、これに関する思索は僕にとって最早古いものとなったのだ。
「深淵への問いに蓋を閉じ」たからと言って、神を持ち出す必要はなかったってわけ。
まあ信仰の中で安逸を貪るのも一つの生き方だとは、ハイデガーも『形而上学入門』の中で指摘してたし、
生き方の一つの指針としては良い線いってたのかなとも思う。それはさておき。

ツイッターに書いたら間違いなく馬鹿にされそうだからここに隠して(?)おくんだけど、
『この人を見よ』を読んでるとき、まるで僕の中にニーチェが宿ったかのようだった。
レビューでは「余りに極端な思想であり、理解できない」だとか「ここまで極端だったから発狂することになったんだろう」とか言われてたから、もしかしたら本当に受け入れがたいことばかり書いてるのかと恐る恐る読んでたら、全くそんなことはなくて。
共感……ではないな。僕の体、僕の思想全てを借り受けて、ニーチェが降りてきた感じ。
大川隆法的な降霊術では断じてないです。
『この人を見よ』を通じて、ニーチェの思想の残滓を読み取ることで、自分の中におぼろげながらも(他の著作は全く読んでないんだからおぼろげなのは当たり前だ)ニーチェを再構築できた。
まあそれだけなら普通の自伝を読んでるときにも起こることで(最近読んだ中島義道の『孤独について』がその好例)、
ただ、そのときにおこるのはあくまで共感であって、「俺自身がニーチェになることだ」までには行かないんだよね。
だからこそ、今はこのニーチェという思想家に並々ならぬ興味を示しているところ。

神秘から離れるって冒頭に言っておきながら神秘的なことを話してる気もけどまあいいや(

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神の有用性を道具性の観点から考察し、その後その考え方を剥離させあるべき位置へ還すこと2

久しぶりに更新再開して、3日目で早くも更新が面倒くさくなってきた。
3日坊主というのはいつになってもつきまとってくる問題なのだろう。

で、哲学は生きる意味を与えてくれるものではなかったってところまで書いたんだっけ。
昔は思ってることを早く言おう早く言おうと思う余り、しかるべきプロセスを省略して
ダイレクトに結論を伝えてたけど(自分ではそれで相手に全てが伝わった気になってた)、
最近は逆に、言葉を弄しすぎて逆に迂遠になっているのではという恐れがある。
いや、どれだけ言葉を尽くしても人の観念なんてものが完全に伝わるはずはないのだから、
そういった意味ではあらゆる文章はしかるべきプロセスがどこかかけているということになるのかもしれない。
まあそれはさておき。

だから僕は、哲学から再度離れることにした。
大学に入ってから哲学と訣別するのはこれで3度目だ。
1度目は入学当初、『ヴィトゲンシュタイン宗教哲学日誌』や『純粋理性批判』をいきなり読もうとして完膚なきまでに打ちのめされた時とき。
2度目は年が明けて勉強をしなければならないという強迫観念から哲学に向かい、それでも挫折したとき。
そして3度目の今回は、自分が欲しかったものが哲学の中に見出せなかったときだ。
ただ、それぞれ理由は違えど、さらに踏み込んだ「理由の原因部分」はどれも共通している。
つまり僕が読めない本にぶち当たったとき。それが哲学から逃避するときだ。
しかしこう書き出してみると、今まで気付かなかったことが露になってくるな……そうか、結局僕は本が理解できなかったのをあれこれとイチャモンをつけて逃げているだけだったのか。
今の書き出しで全く新しい洞察が僕の中に生まれてしまったのだが、
これを明確に記せるほどにはまだそれは固まっていない。
もやもやと、前言語的な概念が目に見えない胸の裡に渦まいてる。
本来ならばこれも言葉にすべきなのだろうけど、それだと昨日から続くこの一連の記事が全てムダになってしまうことになる。
取り敢えず先に固まっているところから書いてしまおう。
僕は哲学から逃げ出したのだ。
生きる意味を別の場所に求めて。

理性の光を照らすことで世界の真理を究明するのが哲学なら、
信仰の祈りを捧げることで個人の救済を図るのが宗教と言えるだろう。
哲学から逃げた以上、僕に残されている道は後は宗教しかないように思えた。
だが周知のとおり、ここ日本では宗教に対する奇異の目線がとりわけて強い。
表だって迫害こそされないが、「キリスト教の信徒です」と言おうものなら珍獣と出会ったかのようにみられることだろう。
哲学とアンサンブル的に発展してきた諸科学は、現代では宗教をまるで羊を追い立てる猟犬の如くに隅へ隅へと追いやるのだ。
だから神を思うことすら、懐疑的にならなければならない。
中世では考えられなかったことだろう。人の傲慢はウロボロスのように自らの思考が生み出した絶対者すら打ち砕き虚無へ還そうとしていると知ったら、アクィナスは、ベーコンは、アウグスティヌスはどのような顔をするだろうか。
本来絶対の存在であり、一種の精神治療の道具として見られることなど在り得なかった神。
だが僕はここでその絶対存在を道具にまで格落ちさせた上で、敢えてその「利便性」を調べてみようと思う。


疲れたので今日はここまで。長くても2日で終わると思ってたのに案外長引いてしまっていてびっくり。








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神の有用性を道具性の観点から考察し、その後その考え方を剥離させあるべき位置へ還すこと

大学4年生になって、どうせ最後の1年だし哲学を好きなだけやろうと思った。
だから最初は貫成人の『哲学史』あたりから始まり、
熊野純彦の『カント』概説書をはじめ『生き延びるためのラカン』とか、
國分功一朗『ドゥルーズの哲学原理』とか、
木田元『わたしの哲学入門』とか、
内田樹『寝ながら学べる構造主義』とか、
入門的な本を読んだ。他にも何冊か読んだかもしれない(覚えていないということは読まなかったのかもしれない)。


で、ある程度入門書も読んだしということで、いよいよ、本格的な哲学書を読んでいこうと思った。
ばじるちゃんがハイデガーに興味があったのもあり、
本当は『形而上学入門』から入るのが一番妥当かとも考えたんだけど、
何故か本人から『存在と時間』を直接薦められたのでそれを読むことにした。
でも序章を超えたあたりからまったく分からなくなってなあ。
とりあえず意味の分からないままに一周を終えたけど、本当に意味が分かってないから
何度か読み直さないといけないことは必至だった。
でも2周目の途中あたりで、突然「何やってるんだろう自分」という無力感のような翳りが差し込みはじめた。
多分ゆったりと時間を取って精読していれば『存在と時間』であっても読めた自身はある。
確かに言われていたことは抽象的だけど、思ってたほどに晦渋というわけではなかったし。


ただ、それをしてなんになるのか?
『ゴルギアス』のカルリクレスの言葉を借りるなら、
「実際、いい年になってまだ哲学をしているようなら、ソクラテスよ、そんな奴はぶん殴ってやらなければならないと私は思うのだ」
といった感じだろうか。正確には違うけど(そもそも僕はまだ若年だから哲学に耽っていても許されただろう)。
なぜ僕が『存在と時間』に挫折したのかと言えば、
それは僕が哲学で食っていくわけじゃないってことに集約されると思う。


自由に満ち溢れた時期の終末。


この終末の後にはプロレタリアートとして市場の中で働くことになるのだ。
(補足:見方によってはこの終末は第二の生と呼べるだろう。だが生があるということは死もまたあるということだ。そして大学を卒業しプロレタリアートとしてやっていくことが生だと言うのなら、それまでの人生は終焉を迎え、思い出として宝箱の中に入れられるということである。ならばこれを終末と表現することになんの躊躇いがあるだろう)。
そこで哲学がなんの役に立つだろうか。
読解について?あるいは問題の発見方法について?そしてその解法について?
どれも他の学問で十分間に合わせることができるものだ。
それが哲学であらなければならない必然性は全くない。
哲学は、過去から現在に至るまでの時の試練を受けて尚力強く輝く思想は、僕にとって「病を治癒するもの」である必要があった。ニーチェが言うように。
この世の仕組みそれ自体が歪で、どこかがねじ曲がってしまっている以上、
ただ生きているだけでは人はいずれ病んでしまう。
現代になって精神病に罹る人の数が増えているのは、それだけこの世の中がおかしいと、皆が心のどこかで思っている証左だろう。
だからこそ、その病は思想の薬効でもって治療されるべきなのだ。
最近ビジネス書コーナーに哲学の本がチラホラと並ぶようになったのも、
その薬効を皆が求めていたからだろう(僕はその種の哲学書を軽蔑するが。「哲学を知らない人にも分かりやすく」甘言を弄してはいるが、あれは本源的に他人を過小評価して書かれたものだ)。
だけど、それをするのに一般的な哲学書では解決にならなかった。
僕は根本的に哲学というものを勘違いしていたのかもしれない。
人の生きる意味にまで意味を与えてくれる哲学なんてものはどこにもなかった。
哲学はあくまで理性でもって合理的に真理を追究するものでしかなかった。
つまりは世界の成り立ち。認識の成り立ち。言語の成り立ち。そういったものにしか立ち入らないのであり、
生きる意味なんてものは最初から俎上には乗っていなかったのだ。


僕にとって哲学は無力であった。



ここまで勢いで書いたのはいいが疲れた。結局本題の考察は全くできてない。
明日また気が向いたら続きを書こうと思う。



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