青D日記

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思考訓練


小林秀雄の文章を初めて読んだ時は鳥肌というか、評論で生まれて初めて高揚感を味わったのを鮮明に覚えています。

でも久々に読み返してみると、結構突っ込みどころ満載な文章書くんだなこの人って思った。

以下小林秀雄『ドストエフスキーの生活』より引用。


「月日は百代の過客にして行きかふ年もまた旅人なり」と芭蕉は行った。恐らくこれは比喩ではない。
 僕等は歴史を発明するとともに、僕等に親しい時間というものも発明せざるを得なかったのだとしたら、行きかう年もまた旅人であることに、別に不思議はないのである。

 
 僕等が発明した時間は生き物だ。僕らはこれを生かすことも出来、殺すことも出来る。過去と言い未来と言い、僕等には思い出と希望の異名に過ぎず、この生活感情の言わば対照的な二方向を支えるものは、僕等の時間を発明した僕等自信の生に他ならず、それを瞬間と呼んでいいのかすら僕等は知らぬ。
 従ってそれは「永遠の現在」とさえ思われて、奇妙な場所に、僕等は未来への希望に準じて過去をよみがえらす。




右脳を使うことを強いられているんだ!と言わんばかりに抽象的に考えないといけない文章。

疑問に思ったのは前提となる条件の設定ですね。

僕等は歴史を発明するとともに、僕等に親しい時間というものも発明せざるを得なかったのだとしたら←ココ

まず大前提として歴史があって、時間は歴史を発明する上で副次的なものとして生み出されたと言ってる。

でも時間と歴史どっちが最初に発明されたかって言われたら、そりゃ時間じゃね?と思うわけです、常識的に考えて。そこの背景事情の説明や補強がこの文章においては特にないので、どちらが先に発明されたか確かめる術はないんですけれども。自分で調べろってことなんかなぁ。

小林秀雄のこの前提に関する条件付けが正しくないとすれば、後の文章も崩壊することになりますよね。

つまり、時間がまず存在し、その中で歴史が営まれていくとすれば、
時間というのは別に僕等にとって親しい、暖かみのある生き物ではなく、冷たくて客観的なものとなるわけで。


後半の文章は時間のもつ幅の話になるのかな。時間は生き物だっていう主張は終わって、話が少し変わってます。

時間というものを過去・現在・未来に分けて考える。じゃあ「現在」って何?って話。
時間をパラパラマンガの1コマみたいな断面図の集積だと捉えると、僕らにとっての現在はほんの一瞬で、
そもそもあると言えるのかってレベルになってしまう。現在は過去と未来の境目に過ぎないものになってしまう。

でも同時に僕らは、特に言葉を発する時に、出てくる単語を一つのものとして捉えている。
あるいはあなたがこの文章を読む今このとき、あなたは文が現れ、消えていくまでの間を「現在」として捉えているだろう。

ある程度の【時間の幅】が無ければ、そもそも何かが動いていることを認識出来ないし、何かをすることも出来なくなってしまう。
だから僕らにとって「現在」は、境目の一瞬ではなく幅をもったものと言えるのだろう
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