青D日記

管理人の趣味全般について適当に語るブログ

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神の道具性についての話はまた気が向いたらにする。
僕が神に縋ろうと思ったのは、元を辿れば『薔薇の名前』を読んで宗教の神秘的な側面に強く惹かれたからなんだけど、
『この人を見よ』を読んでメタフィジカルでもフィジカルでもない、セオロジカルな抜け道には入り込む必要がないと知ったので。
早い話が、これに関する思索は僕にとって最早古いものとなったのだ。
「深淵への問いに蓋を閉じ」たからと言って、神を持ち出す必要はなかったってわけ。
まあ信仰の中で安逸を貪るのも一つの生き方だとは、ハイデガーも『形而上学入門』の中で指摘してたし、
生き方の一つの指針としては良い線いってたのかなとも思う。それはさておき。

ツイッターに書いたら間違いなく馬鹿にされそうだからここに隠して(?)おくんだけど、
『この人を見よ』を読んでるとき、まるで僕の中にニーチェが宿ったかのようだった。
レビューでは「余りに極端な思想であり、理解できない」だとか「ここまで極端だったから発狂することになったんだろう」とか言われてたから、もしかしたら本当に受け入れがたいことばかり書いてるのかと恐る恐る読んでたら、全くそんなことはなくて。
共感……ではないな。僕の体、僕の思想全てを借り受けて、ニーチェが降りてきた感じ。
大川隆法的な降霊術では断じてないです。
『この人を見よ』を通じて、ニーチェの思想の残滓を読み取ることで、自分の中におぼろげながらも(他の著作は全く読んでないんだからおぼろげなのは当たり前だ)ニーチェを再構築できた。
まあそれだけなら普通の自伝を読んでるときにも起こることで(最近読んだ中島義道の『孤独について』がその好例)、
ただ、そのときにおこるのはあくまで共感であって、「俺自身がニーチェになることだ」までには行かないんだよね。
だからこそ、今はこのニーチェという思想家に並々ならぬ興味を示しているところ。

神秘から離れるって冒頭に言っておきながら神秘的なことを話してる気もけどまあいいや(
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